2023年08月17日

幕府の権威がなくなり、朝廷は皇位争いにうつつを抜かしていた鎌倉末期(1318年頃)に『徒然草』が発刊されました。明日が見えない乱世の時代は、どの国でも、どの世紀でも、ある時代の末期に起こっています(ちなみに日本は、縄文、平安、江戸時代に続き4度目の人口減少期に突入していますが、いずれも時代の終盤期であることに注目しておくべきでしょう)。
 カオスの時代に人が何かにすがる場合、宗教がキーになります。先のことがわからないという精神状態では、すがるものが宗教になりやすいのです。『徒然草』をまとめた吉田兼好(兼好法師)も鎌倉仏教の無常観をテーマとして『徒然草』を執筆しました。
 無常観とは、「生は常に変化して移り変わり、同じ状態には留まらない」という仏教の教えからきています。
 ①世の中の全てのものは絶えず変化しており、かつ、②この世の全ては幻であり、仮の姿である、というのが無常観の本質です。人生や社会は儚く、常に不安定さ、移ろいやすさを背負っていることを自覚せよということなのでしょう。まさに諸行無常なのです。
 同じ無常観をベースとした『方丈記』も平安末期に権力争いに敗れた鴨長明の随筆です。京都で起こった戦争、震災による大火、飢饉や疫病などの悲惨さを目の当たりにし、世の中の不条理さに振り回されないための生き方や考え方を無常観という視点からまとめています。
 冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」は、無常観の権化と言えます。
 日本の三大随筆といわれる平安時代の『枕草子』(清少納言)、平安末期の『方丈記』、鎌倉末期の『徒然草』のうち、時代末期に執筆された2冊の随筆が、いずれも無常観がベースになっていることは何を意味しているのでしょうか。
 時代の末期は現在も同様です。こうした時代をどのように捉えるかは個人の他に法人という組織体が誕生している現在では、毎日をただ生き延びるだけでなく、何の為に毎日を暮らすかを考えておかなくてはなりません。未来は考えることでしか見えないからです。
 そこで、社会と会社、さらには人財をテーマにして「つれづれなるままに、そこはかとなく書きつく」ことを考えました。仕事や生活といった日常の中で見聞きした出来事について気の向くままにまとめてみることにしたのです。どんな随筆風になるかは乞うご期待。





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